――そんな訳が无い。
盘面上の针は、何度缲り返しても同じ轨道を描くだけで、决して短くも长くもならないし、先に进むことはない。
それ自体に何らこの世界の成り行きを提示する机构はなく、そんな情绪も持ち合わせてはいないのだ。
时を刻むのは、何时だって観测者の心であり、生を步むのは、何时だって时に身を委ねる者だけである。
「幻想郷にも、こんな场所があったのですねぇ……ちょっと意外」
蓝が何时になく惊いた表情を见せている。
「”场所”ねぇ……」
「 普通の表现では」
「”普通”ねぇ……」
私の代わりに幻想郷中を飞び回っている蓝でさえ、知らないというこの场所。
”场所”と言っても、趣向を凝らしてあるまだ生きた街灯と、坏れた时计、その他几许かが在るだけである。
特别名前を付けられている事は、ないだろう。ならば”ここ”は场所ではない。
スペルカードは、时间を切り取る。
対して名前は、空间を切り取る。
名前の无いものは、存在出来ない。认知出来ないからである。
もっとも、认知の前に存在が先行するか、存在の前に认知が先行するかは、私とて何とも言えない。
量子论的に言えば后者なのだが……まあその辺りの小难しい蕴蓄の解釈は、蓝にでもやらせれば良いだろう。
「普通ではありませんか。外の世界では県境などと言った、想像上の境界が存在し、それを现実の営みや政に反映しているのです。それは、幻想郷とて同様かと」
この蓝という妖怪の言叶は、しばしば鋭さを见せることがある。感受性は、私より蓝の方が上かもしれない。
式を使う自分より、使われる式神の方が胜っているなんて。これも橙の影响なのか。理诘めでばかり考えてはダメね。
そんな皮肉も、どこか嬉しい。
私は少し逡巡してから、时计を仰ぎ见る。
あの时计に限らず、朽ちた物と言うのは、やはり物悲しいものだ。
「……そうね、蓝。それじゃ、この场所に名前でも付けましょうか」
「名前、ですか」
时は全ての物を、平等に、优しく杀す。
猛る猛獣も、か弱い虫达も、人间も、妖怪も、皆同じ。
だが名付けられたものは、存在出来る。认知出来る。永劫に、死を免れることが出来る。
存在に死はあるが、认知自体に死はない。认知は存在に寄り添うのみ。
何か一つでも存在がこの世に続く限り、认知は止まない。
それは生と同义ではないとは言え――。
「だって、死にたくないでしょう」
「……そうですね」
■garnetさん(www.pixiv.net/member.phpid=83452)の呼び声に恐れ多くも応えさせて顶きました。憧れ続けた”紫が行く”タグを付けることが出来るとは…本当に感无量です ありがとうございました
■せっかくの“紫が行く“。自分の技量の范囲で、なんとか出来る限りのリスペクトをさせて顶きました。紫が行く――garnetさんの绘――と言えば、魅力は数多いと思うのですが、自分は背を向けて悠然と立つ紫の姿こそが、一つの魅力ではないかと思います
■4月28日付けのDR139位を顶きました 憧れの”紫が行く”绘でのデイリー…皆様本当にありがとうございました… 感激です><
※キャプション戻しました、お騒がせいたしました;